2006年インカレ@修善寺

自転車旅行サークルから転向した競技1年目(大学3年)。
部のレベルは低かったが学ぶものは多かった。
インカレ予選を通過するも本選で撃沈。
2007年昭和記念公園クリテリウム

クリテは苦手だが、このコースだけは相性がよかった。(その後このコースは使えなくなってしまった)
部が強くなり始めた年。
2008年全日本学生個人ロード

初めての全国本選での完走。
レース後半に入ったあたりで集団から切れそうになっていた時に起きた集団大落車を、集団後方にいたおかげで運よく回避した。ぎりぎり最後の完走者となり27位。最後の上りはまさに選ばれし者のみが上がれる天空への階段といったところ。
2008年富士スバルヒルクライム

一般のヒルクライムに出走させてもらう。しかも監督のハイペロンを借りて武装。
スタート直後から筧選手が踏んで集団を引き延ばしていった。自分は第二集団の7人のパックのゴール勝負でビリ。1時間6分3秒でアスリートクラス12位。ヒルクライム人口が増えた今となってはこれ以上の順位をとるのは格段に難しい。
2008年チームタイムトライアル

例によって強烈な朝練期間(自走を含めると1限前までに100キロ走った)を経て、気合いを入れて臨んだものの、ペース配分をミスって崩壊し、悔しい結果となった。
2008年インカレ

ときわ荘での長い夏合宿(自分は4日だけ参加)の末の美麻でのインカレ。人数が多く、パレード走行が怖くて集団中盤で本スタートが切られてしまった。法政青柳選手が集団をガンガン引っ張っている姿を前方にみて、これはまずいと1周目から踏んで上がっていったところ、メーターはまさかの600W台を示していた。前方に上がってから勢い余って逃げに乗った。あまりに面子がよすぎてすぐ引き戻された。捨身の牽引をしても面白かったかもしれない。慢性的な練習の距離不足のため半分ちょいでDNF。
2008年ツールド北海道

インカレ後はできるだけのインターバル練、ロング練をした。つるつる温泉では、このインカレで引退した東工大A選手に初めて競り勝った。競技1年目からずっと前を走っていた先輩の前をついに走り、北海道に乗り込む。
5ステージのうち、初日はいきなり山岳付き最難関210キロ。山岳でやや遅れるも面子のよい小集団に入り60位くらいで完走。チームでも3人走り切れた。山岳で似た位置で遅れたキルシプーが、その後異次元のスピードで下っていったのは印象的。
2日目は雨。中盤で遅れたものの、150キロのうちあと10キロというところまできてタイムオーバーとなった。なぜあと一歩がんばれなかったのか、非常に悔やまれた。
その後は金魚のフンのごとく車で回るのみで、毎夜の高級ホテルめぐりでは申し訳なさでいっぱい。
2009年2days木祖村

機会をいただきオーベストのレンタル選手として参加。学生の私にとっておじさんたちと勝負する貴重な体験。
初日のTTをそこそこで走り、第一ステージを無難に集団完走。第二ステージはラスト2周くらいでのリー選手のアタックから10人以下に絞られた集団に残った。結局総合6位で終え、賞金ゲット。学生レースや都ロードではほとんどDNFしかしていないので、最後の勝負まで残れたことで楽しめた。木祖村は前年の完走もあり、相性が良い。
2009年チームタイムトライアル

驚異の配分で臨んだ。2強に実力で劣る自分に与えられた先頭時間は1回10秒。集中し、控えめな先頭時間の合間で脚をためる。機関車マイケルが切れてから引く時間を延ばしていき、最後まで冷静にペースを見ることもできつつゴール。4位。最高のメンバーだった。
2009年実業団美麻

200キロもあるしプロ選手もいるし、どうせ玉砕されることが目に見えているので直前まで休もうかと真剣に考えていた。結局しぶしぶ参加。
走ったら走ったで、最初のTTでエースが上位に入ったこともあり、前半は集団の前を走れたりして楽しめた。案の定、半分過ぎたあたりで失速。
後日ツールド北海道で真鍋選手に美麻でがんばってたねと声をかけいただいて感激。でしゃばってみると、見ている人もいたりするんだなと思った。
2009年インカレ

最後のインカレ。修善寺28周と多いが4年目となれば慣れたもの。一度個人ロードを完走しており、完走するだけでは面白くないので、H選手の逃げブリッジを見届けた後はひたすらエースの補給を運ぶ。集団先頭付近で秀峰亭を上り始め、できる限りゆっくり上って最後尾で安全に補給をもらって、次の坂で緩んでいるところで前方まで一気に上がる。競技1年目に世話になった先輩たちが目に入り、励みになる。
終盤22周目くらいで、そろそろ前を引いてもらえますかとの指示。いや、自分にはもう足がないと答えるとできるだけそばにいてくださいということになった。その後エース自らのペースアップにより引きちぎられ、25周途中でDNF。坂の途中で動けなくなっていると巡回バイクのお兄さんから優勝の知らせを聞いた。自分なりに仕事をしたので満足だが、優勝したならそれに輪をかけてよかった。
2009年ツールド北海道

人生に何度かある勝負のときだというくらい強い意志をもって臨む。
第5ステージの標高1000mの十勝峠が正念場ということで、初日の100キロはさらっと終わっていきたいところだが、序盤の上りで9分半340Wを叩き出すも少しだけ遅れて、その間を埋められず、小集団で進む羽目に。先頭交代が下手すぎてめっちゃ怒られた。。ずっと踏んでいたせいで2.5hで平均240Wも出してしまった。
2日目の序盤は穏やかペースだったが、オロロンラインに出た瞬間、強烈な横風が吹き荒れて地獄と化した。集団後方は一列棒状で風除けできない生殺し状態。そんな中、前方の落車に巻き込まれてヘルメットを粉砕するも再スタート。後方から来た救急車がペーサーになってくれた。が、しばらくして切られる。その後バイクがペーサーになってくれた。しかし長くはいられない。すべては終わろうとしている。待て~!後にも先にもこの時ほど絶叫したことはなかった。
その後、自分のチームカーがやってきた。捕まる。地獄の底に垂れてきた一筋の糸だ。車にはすでに5人ほどが群がっていた。車に捕まるのは初めてのことで力んで腕がしびれるが、この窓枠だけは絶対に手離すわけにはいかない。ゴールは遠くない(はずだ)が、時間が過ぎるのが遅い。で、審判の判断で車ごと切られた。
途方に暮れていて、ふと気づくとどこまでも続くサロベツ原野とオホーツクの海がきれいだった。
2009年ジャパンカップオープン男子

現役最後のレース。前年は走り切ったものの、タイムオーバーで記録なしだった。古賀志林道の上りを耐えて、急な下りを攻め気味にさばくも中盤で遅れる。しかし、後ろから来た良い面子のおいしい列車に乗車。絶対に切れるわけにはいかない。北海道とは違い、思いが通じて31位完走。最後に結果を残せてなんとか成仏できたか。
2011年乗鞍

入社後1年ちょいのブランクを経て、社会人2年目から乗鞍ヒルクライムに参戦開始。現役時とは違ってヒルクライムに集中。1時間00分38秒(18位)で目標の1時間切りはぎりお預け。
2012年乗鞍

前年より悪く1時間1分台で35位と悪化。サラリーマン的普通の生活をしていて自転車ではあまりうまくいかなかった。
2013年乗鞍

マンネリ化対処のため楕円ギアを導入。乗鞍は悪天候により短縮。練習時間はこの3年間でもっとも多かったが、30位とふるわなかった。基本的に走れば強くなると思っていたので、練習内容の構成についてまともに考え始める。
2014年写真無し
リデアの楕円ギア使用。グロータックローラー導入。高強度練を導入。乗鞍では16位と自己最高。短縮コースで54分だったが当初目標の乗鞍1時間切りを事実上達成。オフにパイオニアメーター導入。
2015年赤城山

2分の高強度メニューをまじめに導入した2015年。9月からSuperSixEVO Hi-Modを導入して車重のハンデは小さくなった。赤城山で59分37秒で初めてのチャンピオンでの入賞(6位)。赤城山では乗鞍と同じタイムが出ると言われているので、乗鞍1時間切りの(またも)事実上達成。
10月の東京ヒルクライムでは宿谷さん乾さん清宮さんを含む豪華4人パックに残るなど走力はこの年がベスト。12月にエボが盗難にあい、アンカーに戻る。
2016年葉山ヒルクライムスプリント

4月から5月に体調を崩して全体的に振るわなかった2016年。シーズン最後の11月の葉山のレースは約2分の短い上りのコースで5人中2人が勝ち抜いていくという面白い形式。決勝2着で、葉山牛霜降りカルビ500gをゲット。地元愛に溢れた良いレースだった。
いろいろな巡りあわせが重なって自転車が面白いものになり、続けられている。感謝しかない。
これからも新しい可能性を探りながら、ライフワークとして続けていくだろう。
仮説、実験、検証のプロセスについて考えることは、エンジニアとして純粋に面白いと思う。
ムダを省いて効率的にトレーニングしようとする試みは、生産性を上げるという現代の最重要課題への取り組みに似ているかもしれない。
生体について不明なことは多いのでサイエンスとしても面白い。
サイエンスで説明できない巧みで力強い走りはもはやアートに近い。
自分の好き勝手なように実験ができるので、しがらみの多いサラリーマンの趣味として楽しめる。
自転車でしか見えない景色を発見できるのも一興。ツーリングで遠くへ行きたいと思ったのが原点。
物質的な拡大は限界をとっくに過ぎているご時世なので、サイクリングに限らず、自然やスポーツを楽しんでQOLを上げるのが良いと思う。