「学び」の構造
を読んだ。
学ぼうとするとき、まず「おぼえ」ようとする。
「おぼえる」と「わかる」は違いそうである。
「わかる」とは、おぼえた知識ではわからないところがわかること、
その空白について問い続けること、
過去の経験を含めた出来事を関連づけ納得すること(この意味で主観的)。
いつまでも深くわかりつづけることになる。
教えることの機械化を考えると、目標の明文化が必要。
コロンブスがアメリカを発見したのような命題を教える場合、
教えられている側がわかったか、おぼえただけかは外から判別できない。
明文化は困難だが、わかった状態の表れとしての兆候を手掛かりに導くことはできる。
学び続けることでより深くわかっていく。
学びの過程は段階に分けられる。
丸暗記、目標に照らした選択、目標の探求と一貫性の獲得、一貫性を他人に広げる。
学びの問いも段階に分けられる。
前提や当たり前を問う、経験に照らして意味を問う、関連を問う、世の中での役割を問う。
なお、学びの領域には知識の他、芸術や宗教も含まれる。
何のために学ぶかという問いは、人間とは何かという問いに行きつく。
世の中をよくしていくため、問い直し、直観に従って方向を定め、理性によって学び続ける。
人間とは学ぶ存在である。
感想
・文献を読んで何もわかっていないことに気づいたとき、わかったことの傍証の一つは得られたのだろうと思った。
・教えることの機械化はまさに行われつつある。本書の出版は1975年と50年近く前である。わかったことの検証不可能性は変わっていないが、教師の省力化への貢献に意義があろう。
・小中高校生にとっては入口のおぼえるところに動機付けが必要で、ロジック以外の授業関連の身体情報や教師の人間的魅力は大きな要因と思うので、機械化の難しい部分がある。
・わかる経験は重要で、例えばゲームやスポーツを突きつめてわかると、知識の領域でも応用が利きそう。
・わかっている人の雰囲気を見ることによっても、わかる状態に近づくヒントが得られそう。
を読んだ。
学ぼうとするとき、まず「おぼえ」ようとする。
「おぼえる」と「わかる」は違いそうである。
「わかる」とは、おぼえた知識ではわからないところがわかること、
その空白について問い続けること、
過去の経験を含めた出来事を関連づけ納得すること(この意味で主観的)。
いつまでも深くわかりつづけることになる。
教えることの機械化を考えると、目標の明文化が必要。
コロンブスがアメリカを発見したのような命題を教える場合、
教えられている側がわかったか、おぼえただけかは外から判別できない。
明文化は困難だが、わかった状態の表れとしての兆候を手掛かりに導くことはできる。
学び続けることでより深くわかっていく。
学びの過程は段階に分けられる。
丸暗記、目標に照らした選択、目標の探求と一貫性の獲得、一貫性を他人に広げる。
学びの問いも段階に分けられる。
前提や当たり前を問う、経験に照らして意味を問う、関連を問う、世の中での役割を問う。
なお、学びの領域には知識の他、芸術や宗教も含まれる。
何のために学ぶかという問いは、人間とは何かという問いに行きつく。
世の中をよくしていくため、問い直し、直観に従って方向を定め、理性によって学び続ける。
人間とは学ぶ存在である。
感想
・文献を読んで何もわかっていないことに気づいたとき、わかったことの傍証の一つは得られたのだろうと思った。
・教えることの機械化はまさに行われつつある。本書の出版は1975年と50年近く前である。わかったことの検証不可能性は変わっていないが、教師の省力化への貢献に意義があろう。
・小中高校生にとっては入口のおぼえるところに動機付けが必要で、ロジック以外の授業関連の身体情報や教師の人間的魅力は大きな要因と思うので、機械化の難しい部分がある。
・わかる経験は重要で、例えばゲームやスポーツを突きつめてわかると、知識の領域でも応用が利きそう。
・わかっている人の雰囲気を見ることによっても、わかる状態に近づくヒントが得られそう。
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